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有限会社細川製作所の創業者で、60年以上伝書鳩を育て愛し続ける細川清さんに、お仕事のことや鳩の魅力について伺いました。

・本日はどうぞよろしくお願い致します。まず最初にお聞きしますが、細川さんのご出身は熊野町でしょうか。
元々は呉市です。60歳ぐらいまでは呉に住んどったんです。
西愛宕町いうね、三津田高校のわりかし近くなんです。ほんでこの仕事は28歳で始めたんですが、最初は呉の呉陸橋いうとこで4年おって、今度は焼山のとこへ3年、天応へ移ってそこで13年、それからここ熊野へ移って来てちょうど30年ぐらいですかね。
 

・こちらの製作所には大きな機械などたくさんありますが、普段はどのようなお仕事をされているんでしょうか。
主にIHIのジェットエンジンを作るお手伝いです。航空機のジェットエンジンの部品を削るには道具がいるんです。IHIさんでも色んな飛行機の部品を作るのに大量生産になるから、それを作る道具がいるんですよね。その道具を私らが作らせてもらってます。あと、お客さんが全部で10件ぐらいあるんですが、例えば呉市の中化テックのような防衛部品からセーラー万年筆の万年筆を組み立てるための道具なんかも時々お手伝いさせてもらってね。原則、鉄・金属を加工するのが商売なんです。

・そうなんですね。飛行機から防衛まで幅広いお仕事をされていますね!
ええ。最近では広島アルミニウム工業さんとかね。色々アルミの素材を作るから、まずうちでテストピースができたら、それを切り取って削って、工業試験場で引っ張り試験とか曲げとかの仕事もお手伝いさせてもらってるんです。
 

・そうしたお仕事をされながら、長年、伝書鳩を飼われているとお聞きしましたが、その経緯を教えていただけますか。
私はね、中学校卒業して、家も貧乏ですぐ仕事を始めたんです。中学校の近所の鉄工所へ行って今の仕事を習ったんですが、夜は呉工業の夜間に通ってました。今はもう夜間も人数が少ないですけど、私らの時は3クラスあってね。機械科が2クラス、電気科が1クラスでした。1クラスに40人ぐらい。約120人いたんですが卒業するときは、1クラスで15人ぐらいしか卒業できない。皆辞めていくんですよ。
私は4年間学校行きながら、昼間仕事してね。中学時代から鳩を飼っとったんで、昼の高校行ったらやめにゃいけんじゃないですか、鳩を育てるのにお金がないんやけね。今みたいに小遣いももらえないんで。それでやっぱり鳩はやめたくないんで、ちょうど近所に鉄工所があって、親父と一緒にその会社へ行ったんですよ。ほったら男の人がね、鉄を削りよるんよね。旋盤で鉄削ることも知らなかったんです。それを見た時にこりゃ男のする仕事じゃ思うてね。よし、わしもここで習うて、いずれは自分で独立しようというのを中学校卒業してすぐそう思うたんです。

それで昭和47年に結婚したんですが、結婚したと同時に、ずっと勤めていた会社辞めて独立しました。元の勤め先の社長がね、旋盤1台持って仕事にするいうことはね、普通の人間ではできん。じゃが細川くんは10何年鳩を飼うて、ずっと続けとると。あんたじゃったら信念のある男じゃけね、多分やり遂げるじゃろうと。じゃが並大抵じゃないよ言うて、今やったら考え直してもええよ言うてくれたんだが、もうその時には機械も注文しとるしね。
最初は呉の三条通りの陸橋の横の方の会社へ間借りしてね。自分の土地も工場もないんじゃけん、転々として。それで、やっとここ熊野に買ったんですが、ここもね元々私の知っとる方が持っとったんですよ。そういう経緯が色々あってね。場所選ぶ時も、わしの第1番は鳩なんです。鳩が飼えんとこはダメなんですよ。ほで、鳩を飼おう思うたら、どうしても山の中へ入っていかんと近所迷惑になるんで、それでここへ来たんです。

鳩の天敵言うたら鷹なんですが、ここの土地も最初はぱっと見てね、ここだったらまあ鷹から逃げれるかな思ったんですが、考えが甘くてね。鳩が逃げれないんですよ。ちょっとここは小高いとこじゃけえね、鷹が獲るのに絶好の餌場なんですね。


・そうなんですね。細川さんは飼われている鳩をレースに出していると聞いていますが、飼育されているこの辺りは鷹の餌場で大変なんですね。
ここに来た当時はね、年間200から300羽子供獲られよった。皆獲られるから鳩のレースができないんです。生き残った鳩は飛ばない。もう恐ろしいけんね、恐怖で飛ばないんですよ。
それで、もうレースにならんでね。ずっと色んな先輩に聞いたり、話聞いてもうやめそうになったりね。それでも、最近になってやれやっとコツがわかったというか。

<鳩のレースについて>

古くは、遠隔地へ伝書鳩を輸送し、脚に通信文を入れた小さな筒を付けて放鳩し、飼育されていた鳩舎に戻ってきたところで通信文を受け取るといった方法で通信手段として用いられていました。実際の鳩レースは、複数の愛鳩家が各自の飼育している鳩を持ち寄って、同一地点から(放鳩地といいます)から同時に放鳩し、誰の鳩が速く帰ってくるかを競うものです。条件を公平にするため、放鳩地から各自の鳩を飼育している鳩舎までの距離を正確に測定して、鳩が帰ってくるのに要した時間で割り、1分間のスピード(分速)を出して比較します。レース鳩は、飛翔能力と帰巣本能が優れ、1000km以上も上離れた地点から巣に戻ることができるといわれています。 *一般社団法人 日本伝書鳩協会から一部抜粋

会社に隣接する鳩小屋

今、私が入っている「日本伝書鳩協会」というところが茨城県つくば市に国際鳩舎(こくさいきゅうしゃ)を持ってるんです。約2000羽余り鳩を集めて、そこで人を雇うてレースをしよんですよ。そこへ私は10羽あまり預けて。ほんで、福山にも私らの同じ仲間がインターナショナルロフト言うてね、そこでやっぱり2000羽余り全国から集めてるんです。私はつくばと福山へトータル20羽預けて、ここ熊野で残り130羽。その鳩が今50羽ぐらいしかいないんですよ(2023年11月取材時)。あとは全部鷹に獲られて、それでも残った鳩はもう鷹が来ても飛ばして、今、岡山まで35羽ほど訓練行っとんです。
 
・岡山まで訓練に行ってるんですか!?かなり距離がありますね。
特に岡山まで行った鳩はね、頭がええようになっとる。だから鷹が来ても猛スピードで逃げることができるんです。もう見えんぐらいなるまでずっと高く上がって逃げるんですよね。そうすると体がすごい出来上がって、レースや訓練で1羽も落ちたりしないんです。いつもだったらもうね、岡山まで行ったら35羽持ってっても25羽ぐらいなるんです。
鷹にあっけなく食われるんです。それで皆辞めるんです、面白ないんで。


・細川さんはそんな難しく大変な飼育を60年以上ずっと続けられていますが、鳩を飼いたいと思うきっかけはなんだったんでしょうか。
鳩を飼うきっかけは、子供の頃から生き物が好きなんで、ジュウシマツを飼ったり、カナリアやメジロを飼ったり、ハツカネズミを飼ったりね。それでも鳩が1番やっぱり面白い。鳩を飛ばしたら帰ってくるじゃない。ジュウシマツやメジロは飛ばしたら帰ってきませんよね。それに鳩はすごい可愛い顔をしとるんですよ。
買ってきた鳥は飛ばしたらここへ帰ってきませんけど、雛から育てて飛ばした鳩はここへ帰ってくる。
それがすごい魅力なんです。
 

・なるほど。 確かに遠くへ行った鳩が自分のところへ帰ってくるのは嬉しいですね。
私ね、昭和33年の4月10日から鳩を飼い始めたんです。当時やっていた新聞配達の給料日が毎月10日だったんです。それでまず1羽買ってね。あの頃は血統書がない鳥だったら1羽2、300円で売りよったんですよ。それでまた次給料貰った時にもう1羽買って。中学校2年の時。レースは中学校3年生から始めたんです。
ま、始めた言うても、協会には入ってないんです。レースするにはお金がかかるから。そしたら鳥屋のおじさんが、当時私がお金がないの知っとるけんね。そのおじさんの名前で出しちゃる言うて、内緒でレースに出してくれたんです。高校入って働き出してからは、給料から学費や家にもお金を出して、残り500円が私の小遣いじゃったんです。そのお金で鳩を買ってましたが、たくさんは買えんかったですよね。

・当時はなかなか鳩を買えなかったということですが、現在はたくさんの鳩を飼われて、日本伝書鳩協会理事で呉支部の相談役をされているとお聞きしました。今現在どれくらいの方が日本伝書鳩協会に入っているんですか。
呉支部だと会費をくれる方は10人しかいないんです。だから皆ね、もうわしが辞めるの待っとんですよ。レースをする大体の方は70歳以上だから、アルバイトをできる間はええが、できんかったら鳩は買えんよの、年金じゃ買えんのよって言ってます。
 

・確かに。餌代もありますしお金はかかりますよね。
私は、呉から熊野に来たので一般社団法人日本伝書鳩協会呉支部なんですが、呉支部をあと2年続けて、そのあと今度はクラブにしていこうと考えてます。クラブじゃったら会員が5人でもいいんですよ。
 

・そうなんですね。
足環のノルマがない。今、支部だったら会員20名で、足環は800個取らにゃいけん。それがうちの協会の決まりなんです。もうそれが払えないんですよ。

<足環>
私たちの「名札」に当たります。 左右の足につけている色の組み合わせで、どこで、いつ生まれて、親が誰かがわかるようになっています。日本には「日本鳩レース協会」と「日本伝書鳩協会」という2つの団体があり、ほとんどのレース鳩は、いずれかの協会会員が飼育しているものです。レース鳩には迷い鳩防止のため足環がつけられていて、この足環から飼い主に連絡できるようになっています。足環は2つないし3つ付いています。


・鳩レースの団体は細川さんの「日本伝書鳩協会」以外にもあるんですか。

協会が2つあります。うちともう1つは「一般社団法人日本鳩レース協会」。そこはうちの10倍会員がおるんです。広島でも鳩レース協会の方は結構おるんです。それも昔は広島が伝書鳩の1番のメッカだったんです。
 
 
・そうなんですか!?知りませんでした。
うん、長距離のメッカでね、北海道の稚内から広島まで距離が1500キロあるんですよ。その距離を帰りよったんですよね。私は北海道に木古内町って函館市の向こうあるんですが、そこから1羽返しただけですが。
熊野に移ってからはまだ青森から1羽返しただけなんです。もう随分前にね。まあ広島は日本のメッカじゃったんですが、今、広島が1番衰退してとるんです。


・なぜ衰退してしまったんでしょうか。

なんで衰退したか言うたら、それだけ都会になったいうことじゃろう。もう旧広島市内、旧呉市内は鳩飼っとる人はほとんどいない。都会ではもう飼えないんですよ。せちがらい世の中になってね。例えば、鳩が飛んでね、ふんが落ちたらね、クレームがくる。鳩を飼うにはやっぱり近所付き合いがすごい大事なんですよね。鳩レースに行ったら、海のとこへ迷って行くばっかりじゃなくて、民家や特にマンションの5階建てぐらいのとこよね、そういうところに鳩がベランダでジーっとして迷子になったりね。そがなんで迷惑かけるけんね、ちょっとでも世の中のためにわしの鳩が役に立つんであれば思うて、1980年ぐらいから毎年8月6日の平和記念式典にずっと鳩を持ってきよんですよ。今回の取材でも、ちょっとでも鳩のことを皆さんに理解してもらったら嬉しいね。


・最後に、細川さんがこれまで鳩を飼ってきて一番よかったことはありますか。
ああ、それは常に良いですが、やっぱりね、鳩が帰ってきた時の嬉しさがすごいあります。ほんで今はもう会社は息子に任しとんですが、昔は仕事で随分落ち込んでね。でも鳩小屋に入って鳩見よったら俗世間のことを忘れるんですよ、一切。それで頭が冷静になって、仕事が失敗しても、鳩を眺めたらね、ものすごい癒しになるんです。今年80歳になりますが、まだ仕事ができているのはやっぱりね、鳩のおかげ。鳩がおるから元気でおれてるね。


・本日は長時間、取材させていただきありがとうございました。

有限会社細川製作所
安芸郡熊野町新宮4丁目23番9号
TEL082-855-1267
 

「熊野町つなぐプロジェクト」
広島市立大学「2023年-2024年度 いちだい地域共創プロジェクト」採択事業 
広島市立大学の学生や地域の方と一緒に、熊野に暮らす「人」や熊野で活躍する「人」にスポットを当て、その「人」の想いや取り組んでいることを通じて、地域の魅力を伝える情報発信を行っています。
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